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アイルランド音楽名盤シリーズ第一期リリース<クラナド>

茂木 健さんの解説を全文掲載

「ドニゴールは、だてに“忘れられた土地”と呼ばれていたわけじゃないよ。アイルランド国内でも辺鄙な地域だったし、ドニゴール伝統歌の遺産は、ケリーやゴールウェイほど評価されていなかったんだ。存在が知られてなければ、取り上げられるはずもない。地元の人の多くは、自分たちの音楽は退屈なんだろうと信じ込んでいた。でもそこに、ぼくらは美を見いだしたのさ」

 いきなり引用したのは、結成以来、クラナドの中心メンバーとして重要な役割を果たしてきたキアラン・ブレナンの発言だ[*1]。クラナドの音楽、そしてクラナドから分岐し大成功したエンヤの音楽の原風景として、ドニゴールという地名は必ず挙げられてきた。ましてや、今回発売される四タイトルを含む初期の六作品(73年〜82年)では、ドニゴールで採取されたゲール語の伝統歌が圧倒的に大きな比重を占めている。
 とはいえ、ただ単に古い伝統歌を発掘し昔ながらの作法でアルバム化しただけなら、現在につづくクラナドの成功はあり得なかったろう。1970年代、アイルランド伝統音楽のファン層(つまり購買層)は、量・質ともに今とは比較にならないほど未成熟だったからだ。クラナドは発掘した伝統歌に独自のモダンな編曲を施し、形容しがたい情念を強く感じさせながらも、とことんクールに表現した。だからこそ、かれらは言葉の障壁を超え、世界的なバンドに成長できたのだと思う。では、“忘れられた土地”の鄙びた歌とモダンなクールネスは、どのようにしてクラナドのなかで出合い、発信されていったのか? かれらの足跡を追いながら、初期のアルバムを順に聴いていきたい。

 1990年代に至るまで、クラナドのメンバーに大きな変化はなかった。ブレナン家の姉弟モイア、キアラン、ポールに、母方の叔父ポードリグとノエル・デューガンの五人だ(叔父さんといっても、子だくさんが普通のアイルランドのこと、年齢はブレナン姉弟とあまり変わらない)。ブレナン家の父レオは、50年代から60年代はじめにかけシュリーヴ・フォイというダンス・バンドで活躍したプロの音楽家で、アイルランド北西端、ドニゴール州のそのまた西のはずれでパブを経営していた。レオの長女であるモイアも、幼いころ父のバンドとステージに立ち、当時のヒット曲を歌った経験があるという。母親は教師で、地元の合唱団を指導するほどの音楽知識をもっていた。
 のちにクラナドを結成する三姉弟が最初に関心をもったのは、しかし伝統音楽ではなく、ビーチ・ボーイズ、ストーンズ、ジョニ・ミッチェルといったロックであり、かれらは地元のダンス・パーティーなどで練習の成果を披露した。モイアがスライゴーの女子修道院付属学校に入学しハープを学びはじめると、弟のキアランは先の引用でも示されているとおり地元の伝統歌に興味を抱き、父のパブの客たちに頼み込んでは、かれらの歌をテープレコーダーに録音しはじめた。姉弟はドニゴール沖の孤島トーリーなどにまで採集に出かけ、総計で500曲以上のゲール語の伝統歌を集めたという。
 こうして、同時代のポップとゲール語の古い歌が融合する素地はできあがった。初期クラナドのクールな音楽は、ふたりの叔父(双子)が弾くギターやマンドリンを加えることにより、ひとまず完成を見る。この叔父さんたちのギターにはペンタングルの影響が顕著で、クラナドは姉弟を中心とした抜群のコーラス・ワークに、ペンタングルを経由したジャズの方法論まで身につけていった。自ら蒐集・選別したゲール語の伝統歌に、緻密かつダイナミックな表現手法を与えたかれらの音楽が、父レオの店で聴かれたに違いない気楽なパブ・セッションから距離を隔ててゆくのは必然だったろう。
 1970年、五人はドニゴール東部レターケニーの街で開催されたフェスティヴァルに出演、その際バンド名が必要となり、「ドアーの街から来た一家」の意である "an clann as Dobhar" を短縮し Clannad と名乗った。このフェスで優勝したクラナドは、副賞としてアイルランド・フィリップスとのアルバム録音契約を得たが、フィリップスはこの作品の発売を、なんと三年も見合わせた。「ゲール語の歌に市場性はない」というのが、その理由だったそうだ。
 ともあれ、ファースト・アルバム『Clannad』は73年に発売された。前述のような制作の経緯が影響しているのか、録音は少々ぞんざいで、スリーヴ・ノーツもバンドの本質をほとんど捉えていない紋切り型だが、長くかれらの持ち味となる独特のスタイルは、すでにほぼ確立されている。なにより、録音が70年だったという点に注目していただきたい。プランクシティのデビュー盤より二年も早く、ボシー・バンドの前身となった同じドニゴールのスカラ・ブレイが、唯一のアルバムを発表する前年だ。実をいうとこの録音年、ぼくも本稿のための資料調べをしていて初めて知った[*2]。クラナドがいかに驚くべき突然変異体だったか、改めて瞠目させられる。                       
                                                   

『クラナド2』(TM001, 1974)
                       
 デビュー盤はそれなりの評価を得たようで、クラナドは新たにゲール・リンと契約し、ファーストの翌年に早くも二枚目を発表した。プランクシティで知名度を上げていたドーナル・ラニーをプロデューサーに迎え、元スカラ・ブレイのミホール・オ・ドーナルとトゥリーナ・ニ・ゴーナル兄妹、ドラムスのロビー・ブレナンをゲストとして加えた本作は、温もりに包まれた透明感をデビュー盤からそのまま引き継ぎながら、奥行きと厚味がぐっと増した内容となっている。
 ポードリグ・デューガンがマンドラを演奏する曲(特に[1])では、時として編曲にプランクシティの影がちらつくものの、モイアの歌にひとたび男声コーラスが重なればもう完全にクラナドの世界で、これは現在に至るまで変わらない。いやむしろ、ミホールひとりにギターを任せ、モイアがしっとりと物語を伝えてゆく[3]の最終連に、次作以降のクラナドが予言されているというべきか。柔らかく滑り込んでくる男たちの声は、感傷過多になるのを避けながら劇的効果を高め、ダブルトラックで録られたモイアのヴォーカルが、凛として歌に幕を引く。もともとはゲール語の無伴奏伝統歌だったことを容易に忘れさせる鮮烈な編曲であり、構成だ。音楽プロデュースの重要性に対するかれらの認識の深さを、この曲が如実に示している。
 シンプルな伝統歌に施された大胆な編曲という意味では、[7]も引けをとらない。この歌は本来、スコットランドの北西(海を隔てドニゴールのすぐ北)に並ぶヘブリディーズ諸島に伝わる Waulking Songs と呼ばれる労働歌のひとつだ。織りあがった毛織物にアルカリ溶液などを混ぜてバンバン叩きつけ、組織を密にするという作業に携わる女性たちが歌っていたウォウキング・ソングのイントロに、涼やかなハープを使うというのも秀逸な発想だが、歌本体を男声で固め、後半、ロック・ドラムスとディストーションのかかったギターを投入するなんて、かなりすごい。ちなみに、ドーナル・ラニーのプロデュースを得たカパーケリーが、ウォウキング・ソングをファンキーに演奏して注目を集めたのは、本作から15年が経過した1989年のことだった。
 本作には[7]のスコットランドだけでなく、ブルターニュの曲[6]も収録されている。ゲール語解説の英訳によるとブルターニュのツアー中に習ったというから、本作が発売された時点でのクラナドは、すでに国外ツアーを経験していたのだろう。

『デュラマン』(TM002、1976)
               
 ことアルバム制作に関する限り、ゲール語の伝統歌にこだわった初期クラナドの頂点が本作だと思う。まず眼を引くのが、ゲール・リン盤CDの裏ジャケにある「編曲:キアラン・ブレナン」という独立したクレジット。前二作でスタジオ経験を積み、その合間のツアーでグループとしての自信を得たかれらが、満を持して制作に臨んだ姿がうかがわれる。実際、非の打ち所がない10曲だ。とはいえ楽器編成は前作とほぼ同様で、全体の印象も大きく変わるものではない。異なっているのは、ゲスト・プレーヤーを加えずほとんどの楽器を自分たちでこなした点と、プロデューサーがニッキー・ライアンに変わったことぐらい。ライアンはもともと技術畑の人だから、音楽面での主導権は完全にクラナド側が握っていたと考えていいだろう(ライアンが頭角を現すのは、まだ十年以上先の話となる)。
 1970年代以降にアイルランド音楽を知った人にとって、本作でのクラナドの名編曲/名演が、長く個人的な決定版となった例は少なくないと信じる。ぼくの場合、子供の遊び歌を荘厳に処理したタイトル・トラック[1]、多重録音のコーラスに導かれモイアが美しく歌い上げる[4]、17世紀アイルランドが被った悲劇の歴史をひとりの娘に集約し、英語とゲール語の混在が堪らなく哀しい[7]が、そんな“個人的決定版”でした。
 ご参考までに、『デュラマンDulaman』をゲール語辞書で調べると、「岸辺に打ち上げられた海草」という限定的な語義が示されていた。「海草」一般は「ファマンfeamainn」となっており、この語を伴った各種の海草名がぞろぞろ並んでいる。本作の英語解説によると、「デュラマン」も食用と染色用の二種類に分けられるというから、海辺で暮らした――少なくともドニゴールの――人びとにとって、海草はよほど生活に密着していたのだろう。

『デュラマン』を発表した76年、クラナドはヨーロッパ・ツアーを成功させ、フルタイムのプロに転じた。このあとの数年間、かれらがツアーに明け暮れていた様子は、新たに移籍したレコード会社タラでの第一弾が、78年のスイス・ツアーを記録した『Clannad in Concert』(発表は79年)だったことからも充分にうかがえる。過去三枚のスタジオ盤では自制していたとしか思えないジャジーでスリリングな楽器間の応酬もたっぷりと聴け、かれらの全作品のなかでも異彩を放つ一枚だ。

『林檎の木〜クラン・ウル』(TM003、1980)  
                 
 ヨーロッパ・ツアーのスケジュールの合間を縫って制作されたのだろうか、四年ぶりのスタジオ盤となる本作は、旧西ドイツのケルンで録音された。各曲の作り込みは『デュラマン』に及ばないし、収録されている総時間数もたいへん短いのだが、ステージで練り上げた曲を一気に録音したという勢いが感じられ、当時のクラナドが生々しく凝縮されているという印象だ(だからよけい短く感じるのかも)。プロデュースは、前作同様ニッキー・ライアンが担当している。
『In Concert』で大きな聴きどころとなっていたジャズ的な要素が、伝統歌[1]でエレクトリック・ピアノを交えながら全開する一方、[4]と[5]ではモイアの奏でる質朴なハープの力強さが光る。特に[5]は、ハープとウッド・ベースの緊張感あふれるデュオというアイルランド音楽では極めて稀な作品となっており、曲の終わり間近になって聴こえてくるギターとコーラスを含め、かれらの鋭い感性を再確認できるだろう。
 世界を視野に入れたプロとしてのクラナドを実感させてくれたのが、トーマス・ムーア作の超有名な“アイルランド民謡”である[2]だ。日本では〈庭の千草〉として知られるこの歌、20世紀初頭からおおぜいの歌手が録音してきており、不用意に演奏しようものなら、アイルランド国外の客に迎合するための陳腐な「観光土産」となりかねない。そんな危険が伴う曲を、かれらは朝露にも似た潤いを失わないまま軽やかに、あっさりと聴かせた。英語、日本語を問わず、クラシック歌手の歌う〈庭の千草〉にはそのクサさに辟易してしまうぼくも、クラナドのこのヴァージョンは、掛け値なしに美しいと思う。前作『In Concert』で取り上げた〈サリー・ガーデンズ〉も同じくらい有名な歌だし、ヨーロッパの聴衆へのサービスを意識しつつ、この種の歌を自分たちの考える真のアイリッシュネスで処理した姿勢は立派だ。

     

『フアム』(TM004, 1982) 
                
 クラナドが音楽的方向性を転換した重要な作品であり、エンヤがメンバーとして参加した唯一のアルバム。(79年の段階でエンヤはすでにメンバーだったという情報もあり[*3]、となると『クラン・ウール』に参加していてもおかしくないのだが、ぼくが調べた範囲では確証がもてるほど信頼性の高い資料は見つからなかった。)
 特筆すべき点はふたつ。まず、伝統歌の割り合いが全11曲中2曲と激減し、8曲がキアランとポールの自作になったこと。残り1曲は、先述のトーマス・ムーアと名前がよく似ている現代のシンガー・ソングライター、トム・ムーアの作品だ。ふたつ目。現代曲が増えたことにより音創りにも大きな変化が現れ、ポップ色が濃厚になった。アルバム・デビューから十年、いかに独自のスタイルを確立したとはいえ、同じことを夜毎くり返していれば閉塞感が生まれるだろうし、突破口を求め冒険したくなったのは想像に難くない。しかしながら、本作での冒険は未だ単純な足し算にとどまっている。つまり、これまでの楽器編成を維持しながら現代的な曲を処理し、そこにドラムスをはじめとするロックの要素を加算しているわけだ。
 前作までのクラナドの音楽には、伝統音楽のモーダル(旋法的)な構造や時として不規則になるリズムを逆手にとり、音の空隙さえ生き生きと聴かせるという魅力があった。フィンガー・ピッキングによるギターとハープ、そしてウッド・ベースの組み合わせがその典型であり、本作でも[1]などは従来の路線で構築されている。しかし[4]や[7]では、ロック風のリズムを刻むギターと8ビート系のドラムスによって後景が塗りつぶされ、音の隙間と呼べそうなものは残っていない。結果的に本作は、初期クラナドの魅力を保ちつつ、かれらを「特異な個性をもつポップ・バンド」へと導いてゆく過渡的な作品となった。
 では、かれらがそのような変容(脱皮?)を図る過程において、今や大スターとなったエンヤはどれほどの役割を果たしたのか? 本作とエンヤのその後のヒット作を聴き比べてみても、こればかりは判断のしようがないと思う。ブレナン家には総勢九人の子供がいるそうで、52年生まれのモイアが長子、61年生まれのエンヤが末子となる。クラナドがアルバム・デビューしたときやっと十二歳だったエンヤも、本作ではちゃんとキーボードを弾いているようだし、[5]ではリード・ヴォーカルまで任された。しかし、彼女の歌はモイアに比べると気の毒になるくらい表現力に乏しく、そのためだろう、[5]のリード・ヴォーカルは全編ダブルトラックだ。彼女のはかなげな声が、本作でのコーラスにひと味違う柔らかさを与えているのも事実だけど、ぼくには、大きなお姉ちゃん、お兄ちゃん(特にキアラン)にいわれるまま、健気に自分のパートをこなしている末っ子の姿しか見えてこない。

『フアム』を発表した1982年、クラナドはヨークシャーTVからノーザン・アイルランドを舞台にした三回シリーズのスリラー番組の音楽を依頼された。このとき準備されたゲール語の自作曲〈ハリーズ・ゲーム〉によって、かれらが世界市場へと大きく飛躍したのはご存知のとおり。それ以降、変幻自在のコーラスにエレクトロニクスを絡めたクラナドのスタイルは一種の定番となり、ポップ界のみならずニューエイジ〜ケルティック・ミュージック界に無数の追随者を生んでゆく。クラナドの方法論を存分に吸収しながら『フアム』一作だけでバンドを離れた末っ子も、やはりクラナドの手の内を知りつくしたプロデューサーのニッキー・ライアンと組んで、姉兄をしのぐ(少なくとも売り上げは)一大ブランドに成長していった。

 クラナドがあえて挑まなかったドニゴール・ダンス・チューン本来の魅力が、アルタンなどの活躍で広く知られはじめるのは、エンヤがブレイクしたあとのことだった。アイリッシュ(ケルティック?)ミュージックは世界的な認知を得て、ブームと呼ばれるほどの活況を呈してゆく。

茂木 健 2002年4月

[*1] “A Brief History of Clannad...(from Atlantic Records)”(http://discuss.celticgrove.com/stories/storyReader$102)

[*2] Geoff Wallis & Sue Wilson, “THE ROUGH GUIDE TO Irish Music”(Rough Guides, 2001)

[*3] Colin Larkin(ed.), “The Guinness Encyclopedia of Popular Music” (Guiness Publishing, 1993)

                

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