マディ・プライア・インタビュー



2.スティーライ・スパン

Q:スティーライ・スパンは本当に世界的な影響力を持ったバンドだと思いますが、方の音楽のスタイルはスティーライ以前にはアコースティックでしたから、最初にアーシュリー・ハッチングスが貴方にスティーライへの参加を要請してきた時、フォークロック・バンドに参加する事に貴方は戸惑いを感じる様な事はなかったのでしょうか?

M:いいえ。同じ事をより大きな音でやるだけですから、私達は特に問題が起こるとは思いませんでした。リハーサルの時、マーティン(・カーシー)は最初、私達の音がうるさいと言っていたのですが、自分がやり始めると一番大きな音を出したのよ(笑)。

Q:ハハハ、それがマーティン・カーシーとは。でも、心の狭い純粋伝統主義者のフォーク・ファンの中にはスティーライの音楽に反対した人もいたのでは?

M:そういう人は、いつでもいるわ(笑)。彼らは伝統音楽を「所有」しているみたいに思っているのじゃないかしら。伝統音楽がポピュラーになる必要はないと思っているみたい。小さな世界の中でコントロールしたいみたいだし...アーシュリー(・ハッチングス)は資金を得て機材を買い、バンドを作ったのだけれど、(トラディショナル・フォークの世界では)これはかつて誰もやった事のなかった事でした。...当時ティムと私は一つの家に住んでいたの。アンディ・アーバインやジョニー・モイニハンも滞在していたわ、彼らは私達の友達だったし。その時アーシュリーがスウィニーズ・メン(アンディ、ジョニー、テリー・ウッズによる1960年代の最も重要なアイリッシュ・バンドのひとつ)と一緒にバンドを作ろうとしたのだけれど、スウィニーズ・メンは解散してしまったので、アーシュリーが一緒の家に住んでいた私達(マディとティム)にもバンドに加わらないかい?と誘ったのよ...

Q:その話は知っています。アンディやジョニーは殆どスティーライに参加するところだったという...ところで、テリー&ゲイ・ウッズ達も一緒に住んでいたのでしょうか?

M:いいえ。うーん、多分彼らはアーシュリーのところにいたと思うわ...それとも多分ジョニー・バトラーのところだったのかも。バトラーは『HARK! THEVILLAGE WAIT』(1970年のスティーライ・スパンのファースト・アルバム)の裏ジャケットにランプを手にした姿で大きく写っているわ。彼はその頃、私達のローディーをやっていたのよ...
   
〔写真3)STEELEYE SPAN: HARK! THE VILLAGE WAIT (英RCA SF8113,LP) (日本盤CD:MSI SH79052)
(写真4〕写真3のLPのジャケット裏面

 

Q:スティーライ・スパンの他にも貴方は、ティム・ハートとの素晴らしいサード・アルバム『SUMMER SOLSTICE 』(1971)でも、またフォークロック・スタイルでやっていますね...
  
〔写真5〕TIM HART & MADDY PRIOR: SUMMER SOLSTICE (英B&C CAS1035,LP)

 
M:それはもう少しアコースティックよ。でも私達はスティーライ・スパンからの影響を受けはじめたっていう訳ね。
[注:『SUMMER SOLSTICE 』はスティーライ・スパンのスタート後に制作・発表された。]

Q:いずれにせよ、貴方は当時、フォークロック・ミュージックに大きな未来を信じていたという訳でしょうか?

M:ただあの音楽が好きだったのよ。私達が自信をもっていたのは、私達がとても若かったから...

Q:スティーライの最初の3枚のアルバムは本当に歴史的な作品ですね...

M:確かに、まあ並のものではなかったと思います。

Q:で、特にファースト・アルバムはイングリッシュとアイリッシュの混成でしたね。先に貴方も言われていた通り、当時貴方達は一つの家で共同生活をしていた...

M:当時私達はウィルトシア(イングランド南西部)の田舎に住んでいたわ。3ケ月をそこで過ごして音楽だけをやっていたのです。私はそんな様にしてアルバムを作った事などそれまでなかった。皆と一緒に初めて田舎で過ごせば大きな結果を生むのよ。

Q:スティーライの歴史本によれば、イングランド人とアイルランド人では食事を
始めとして様々な習慣が異なっていて大変だったとか〔マディは笑いながら「その通
り」と同意〕..それで伺いたいのですが、音楽に関しては貴方達とアイリッシュの
ミュージシャンとの意見の相違などはなかったのでしょうか?

M:いいえ。そういう事よりも、よく知らない人間同士で3ケ月以上も一緒にいたのですからね。アーシュリーはフェアポート時代の自動車事故の直後でそのショックからまだ完全には立ち直っていませんでしたし...ひどい事故で2人も亡くなったのよ。...私達はまだとても若かったし、みんな他にやりたい事もあった。私もその時はバンドに留まる理由は無いと思いましたし...

Q:そうですか、つまりスティーライMK.I(マディ、ティム、ピーター、ゲイ&テリー・ウッズ、アーシュリーによる第一期のスティーライ・スパンのことで、このメンバーでのアルバムはファーストのみ)の解散は音楽上の理由ではないと。

M:実際その通りなのです。皆ほかの事をやりたくなった。

Q:さて、次の質問は先の『TEN MAN MOP.. 』のアルバムに関してなのですが、このアルバムの内ジャケットでは、貴方達はみんなルーラルな服装で写真に写っていますね。私達も当時この写真を恰好良いと感じたのですが、ここでは何か「価値基準の変革」みたいなものがあったのでしょうか? つまり、若い人々は普通モダンなスタイルのファッションを好むのに、あえて...
〔写真6〕写真2のLPのジャケット内の写真より

M:私達はそれに反抗したの。意識的に中世風なビジュアルでね。「奉公人の娘の休日」といったロング・ドレスを着たのよ。そして音楽の上でも。...当時は1970年代の初めでしたから、社会は全てに新しい事を優先していたけれど、スティーラィ・スパンは自分の道に誇りを持っていたのです。私達は決して他の誰の様にも見えなかったわ。私達はとてもビジュアルでした。ママス・プレイ(英国の伝統の仮装劇)のコスチュームを着てステージに立ったしたのよ。長いリボンや高い帽子なんかを身に着けてね、(仮装で)誰も顔を見せない様にして、それで驚く様なハーモニーで歌い出すの...これはとても効果的でした。アメリカでも。

Q:まさに、それが次に伺いたかった事なのですが、スティーライ・スパンや貴方自身の音楽にとって、ビジュアルあるいは劇的な要素は重要なものなのですね?

M:その通り。私は今でもそうです。私は(劇的要素のパフォーマンスを)暫くの間やっていなかったのですが、最近では再び取り入れているのです。
〔注:来日公演をご覧にならなかった方の為に補足すると、例えば「アーサー王組曲」では持参のプロジェクターでスクリーンに映像を映しながら、マディ自身がアーサー王の衣装を着て歌うというパフォーマンスがあったし、そのほかにも彼女は"THE LARK IN THE MORNING" を歌う時に両手を大きく広げて飛翔する雲雀の様にゆっくりと舞いながら歌ったのだった。〕

Q:昔の英国のフォーク・ミュージックの新聞で、スティーライ・スパンが宇宙服を着てステージに立っている写真を見た事があります...

M:ステージをやる度に私はいつも違ったコスチュームを着ていたものでした。音楽を反映させようと試みての事なのですが、私はコスチュームを作るのに時間を割いていたものでした。それはステージの一部で視覚的な要素は重要なものなのです。例えばコンサートの最後のアンコールもやらなかった程にコンセプチュアルなステージだったのです。

Q:それは70、80年代の事ですか?

M:70年代の事よ。一つのステージでティムが宇宙服、ボブが水夫の服、私が看護婦の服を着てといった具合にやった事もあったわ。それからまた別の時は、ロックン・ロール・スタイルのコンサートもやったのです。ミニ・スカートやハイ・ヒールを履いてね。

Q:もしタイム・マシンがあったら..と思いますね(笑)。 
それでは次の質問なのですが、70年代から今日までの英国フォークの歴史を振り返ってみますと、多くの人々がローカルな音楽に専門化していったと思います。例えば、アルビオン・バンドやジョン・カークパトリックはイングリッシュ・ミュージックだけを演奏していますね...

M:その通り。ジョンは自分の住んでいるシュロップシア(ウェールズに接するイングランド中西部の州)の音楽をやっているわ。シュロップシア・ベドラムズというモリス・ダンス・チームをやっていてね。彼は(伝統を復活させて)最初に顔を黒く塗った一人なのよ。彼はイングランドの伝統に活力を取り戻したの。
〔注:顔を黒く塗るのは古のモリス・ダンサーの伝統のひとつで、俗説ではムーア
人に扮しているものと言われている。〕

Q:で、ローカル音楽に特化している多くのミュージシャン達と比較すると、貴方やスティーライはいつもジェネラリストでしたね。特定のポリシーがあったのでしょうか。

M:事前に意図的してやったのではなく結果的にそうなったという事ですね。でも北に引っ越してから作った『HAPPY FAMILIES』(1990 年のMADDY PRIOR & RICK KEMP 名義のアルバム) はとてもローカルな視点のアルバムだと思います。
   
〔写真7〕MADDY PRIOR & RICK KEMP: HAPPY FAMILIES( 英PARK PRKCD4,CD)

 
Q:さて先程も言われていた様に、貴方は伝統のバラッドについてはスコットランドのルーツが重要だと認識されているのですね?

M:その通りです。私達はイングリッシュだけとか、あるいはケルティックの曲だけを取り上げるといった事はありませんでした。しかしまた私達はイングランド人である事を認識していますから、アイリッシュやケルティックの曲は余り多くはやりませんでしたけれど..

Q:なるほど。例えば"PERCEL OF ROGUS" の様にスティーライの重要なレパートリーにはスコティッシュ・ソングがありますね...
〔注:"PERCEL OF ROGUS" は73年のスティーライのアルバムのタイトル曲になっているもので、曲名は「国(スコットランド)を裏切ってイングランド側に加担した悪党ども」といった意味〕
   
〔写真8〕STEELEYE SPAN: PERCEL OF ROGUES (英CHRYSALIS CHR1046,LP)

  
M:私達はスコットランドでその曲をやったのよ。私達はエジンバラで全曲ジャコバイト・リベリオンのバラッドばかりのコンサートをやった事がありますが、とてもファンタスティックでした。"CAM YE O'ER FRAE FRANCE" などの歌をスコットランド人の聴衆を前に歌ったのよ。
〔注:ジャコバイト・リベリオンとは、18世紀の前半のイングランドに対するスコットランド側からの最後の軍事蜂起の事で、スコットランド人は先に祖国を追われてフランスに亡命していたカトリックの国王ジェイムズ七世の子孫達を擁立して二度大蜂起したが、結局は失敗に終わった。"CAM YE O'ER FRAE FRANCE" (上記のスティーライのアルバム『PERCEL OF ROGUS 』に収録)などを始めとする、この歴史に因んだ数多くのスコットランドのトラッド・ソングは、ジャコバイト・ソングと呼ばれており、スコットランドの伝統歌の中でひとつの重要なジャンルを形成している。〕

Q:私はマディさんの歌うスコティッシュ・ソングが大好きなのですが、でもイングランド人である貴方が"PERCEL OF ROGUS" の様な明確に反イングランドの内容の歌を歌うという事は、心理的な葛藤はないのでしょうか?

M:いいえ。これは私個人の事ではないと思いますから..
イングランドが最初に植民地化したのはイングランドでした。..歴史の個々のケースでは人々は愚かだったり、暴力的だったり、幼かったりしますが、多くは単に愚かだったと思います。それが組織化されると間違った事になると思うのです。..
私の考えは間違っているかも知れませんけれどね。

Q:次ぎの質問ですが、『STORM FORCE TEN 』(1977)までのスティーライはどんどん音楽をポップな方向にもっていったと思います。それでもレパートリーは、トラッドに拘り続けましたね..。

M:私達はいつでもトラディショナルの曲と自分達で書いた曲とのコンビネーションを考えていたのです。『STORM FORCE TEN 』の後、スティーライは(一端解散してから)再編成してよりはっきりと自作の曲に重点を置くようになりました。

Q:『SAILS OF SILVER 』(1980)のアルバムの頃の事ですね。
   
〔写真9〕STEELEYE SPAN: SAILS OF SILVER (英CHRYSALIS CHR1304,LP)

     
M:そう、私達は一端解散してから戻って来て以前と同じ様な確信を持つようになったわ。

Q:その当時、バンドをもっとコンテンポラリーに変えようとしたという訳ですか?

M:私達はより若い人々に受け入れられる様にしたかったの。バンドを現在進行形にしたかった。いくつかの曲はとても上手くいったわ。...それに、私達はクリサリス・レーベルと5年で10枚のアルバムを作るという契約をしていたのだけれど、そんなに早くは働けなかった。いつでもレコーディングしているみたいな状態だったのよ。だからやり方を一新したくなったの...

    

           

     

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