1.初期の頃のこと〜アイリッシュとスコティッシュの歌
Q:イングランドのブラックプール(イングランド北西部のランカシア州の海岸の町)のご出身ですね。誕生日を伺っても良いですか?
M(マディ):1947年の8月14日です。
Q:貴方の家系には音楽家はいるのですか?
M:祖母は定評のあった人でショーに出ていました。家に帰っても古い曲をやっていたわね...それが私の音楽になったっていう訳じゃないけれど(笑)。
Q:その方は歌手だったのですか?
M:いえ、彼女はピアノ弾きでした。別に歌手でダンサーだった大叔母もいますけれど。でも私自身の家は音楽をやっていませんでした。父親はライターでしたからとても静かな家庭だったのです。だから私は今でもとても静かなのよ、お酒を飲まない限りはね(笑)。
Q:あなたの最初のレコードの、ティム・ハートとの『FOLK SONGS OF OLD ENGLAND VOL.1 』(1968
年) のジャケットには「貴方は13歳の時には早くもセントオールバンズ(イングランド南東部の都市)のフォーク・クラブのレジデント(プロのミュージシャンの前座として出演するアマチュアのこと)になった」と書いてありますが..。
(写真1:)TIM HART & MADDY PRIOR: FOLK SONGS OF OLD ENGLAND VOL.1
(英TEPEE TPRLP102,LP)

M:そう。パブに出入りするには若すぎる歳でしょう?私は13歳の頃にはもう23歳ぐらいに見えたのよ(笑)。私はいつでも同じ歳に見えるの。30歳になっても23歳に見えた(笑)。だから若い頃からジャズ・クラブにダンスをしに行っていました。
Q:平凡な質問ですが、若い頃に貴方はどの様にして自国のフォーク・ミュージックにのめり込むようになったのですか?
M:私が最初にフォーク・クラブに行った頃は、そこでは殆どアメリカの音楽ばかりをやっていたのです。まあ何人かの人達はイングランドのフォークを歌っていましたけれど、私は友達と同じくアメリカの音楽を歌ってました。フォーク・クラブに行って例えば「フライト・トレイン」みたいなアメリカン・フォークソングやブルースを歌うというのは、当時の社会的な現象だったのよ。で、私はサンディ&ジニー(・ダーリントン)というシアトル来た米国人のカップルと出会ったのだけれど、彼らは私にアメリカンではなく英国の歌を歌うべきだと言って英国の歌を集めたテープをくれたのです。英国の歌は学校で習ったものだったので私は最初は余り好きじゃなかったのですが...そのテープを聞いていくうちに段々好きになっていったのです。
Q:なるほど。
M:それから私は、ティム(・ハート)に出会いました。私達はイングリシュ・ソングを歌い始めました。私は特にブリティッシュの素材を求めていました。..実際には"THE
LARK IN THE MORNING" の様な私の最も好きな幾つかの歌は学校で習ったものだったのですけれどね。それらは(学校は)悪い形で教えられていたのだと思います。しかし実際には素晴らしいものでした。
[注:"THE LARK IN THE MORNING" はスティーライ・スパンのセカンド・アルバム『PLEASE
TO SEE THE KING』(1971)の収録曲として広く知られているが、マディは今日まで歌い続けており、日本のステージでも「私のキャリアを通してのレパートリーです」と紹介していた。]
Q:その頃、貴方のシンギング・スタイルに影響を与えたフォーク・シンガーはいますか?
M:最初は多分ジョーン・バエズだったと思うわ。またしても興味い事だけれど、(バエズの様な)米国人が伝えた歌をイングランド人が歌い始めたのよね。何故ならその歌はもともとイングランドのものでしたから。それからボブ・ディランも英国に来たし。彼は、音楽ではなく作詞に関して私に影響を与えていると思うわ。
Q:では、イングランドのトラディショナル・シンガー達についてはどうなのでしょう?当時は本物の伝統歌手達の歌をたやすく聞けたのでしょうか?例えばボブ・コパーの様な...
M:ええ、当時彼らはあちこちにいましたので会う事が出来たし、フェスティバルでは歌を聴く事が出来たのです。ラフブロー・フェスティバルが最も大きいフェスでした。実際にはボブ・コパーを見るのは稀だったけれど、ええと..ハリー・コックス、いえフレッド・ジョーダンはよく聞いたわ。他にもベル・スチュワートとかディヴィ・スチュワートとかジミー・マクベスなどみんな歌っていたのです。ラフブローとかキーロイのフェスでね。彼らはフェスに集まった聴衆達からとても尊敬されていたわ。
〔注:ボブ・コパー (1915年生まれ) はイングランドを代表する伝統歌の一家であるサセックス(イングランド南東部)のコパー・ファミリーの中心人物。ハリー・コックス(1885-1971)
は膨大な伝統歌のレパートリーを持っていたノーフォーク(イングランド東部)の農夫。フレッド・ジョーダン (1921年生まれ)
はシュロップシア(イングランド中西部)の農夫で、当時最も広く知られた伝統歌手の一人。ジミー・マクベス(1894-1974)
はスコットランド北東部出身の農夫で、スコットランドのフォーク・リヴァイヴァルにも多大な影響を与えた伝統歌手。ベル・スチュワートとディヴィ・スチュワートはトラベラーの血を受け継ぐスコットランドの高名な伝統歌手。以上ここで言及されている伝統歌手達は全て英国TOPIC
レコード等に録音が残っている。〕
Q:貴方のスタイルは貴方独自のもので、英国フォーク・リヴァイヴァルの女性歌手のパイオニアである事はよく認識しています。その上で伺うのですが、貴方は自分自身でヴォーカル・スタイルを創造したのでしょうか?
M:私は若い頃にパディー・ターニーとかメアリー・ドーランといった多くのアイリッシュ・シンガーを聞いていました。それらの影響は例えば、スティーライ・スパンのアルバム『TEN
MAN MOP OR MR RESERVOIR BUTLER RIDES AGAIN』(1971 年のサード・アルバム)に反映されていると思います。このアルバムでは、私の歌うアイリッシュ・スタイルを聞いて頂けるでしょう。その後は、いろんなスタイルで歌う様になりましたが。
(写真2):STEELEYE SPAN: TEN MAN MOP OR MR RESERVOIR BUTLER RIDES
AGAIN』 (英PEGASUS PEG-9,LP)

〔注:パディー・ターニー (1921年スコットランドのグラスゴーに生まれたが、すぐにアイルランドのドニゴールに移住した) は、母親のブリット共々膨大な伝統歌を今日に伝えた最も重要なアイルランドの伝統歌手の一人で、多くの録音がある。メアリー・ドーランは米CAEDMON/英TOPIC
の高名なシリーズ『FOLK SONGS OF BRITAIN 』のVOL.7,8 などで聴く事が出来る。〕
Q:それは興味深い。具体的にはどの歌がアイリッシュ・スタイルだと?〔アルバムを差し出す〕
M:〔アルバムを手にしながら懐かしそうに〕グレイトなアルバムね。ええと、"CAPTAIN COULSTON"が完全にアイリッシュの影響を受けていると思います。もちろん"WEE
WEAVER"もね。それから"WHEN I WAS ON HORSEBACK" はメアリー・ドーランの歌だし(実際『TEN
MAN MOP... 』の原盤ジャケットにはMARY DORANの名前がクレジットされている)...この頃は非常にアイリッシュ的な時代でした。その後、スティーライは再編成して、ボブ(・ジョンソン)やリック(・ケンプ)を加えてもっとイングリッシュ的になったと思うわ...少しばかり冒険的にもなったし。
Q:それでも、他のイングランドのアーティストに比較すると、貴方とスティーライ・スパンはジェネラリストだと思います。つまり、貴方達のレパートリーはイングリッシュだけでなくスコティッシュやアイリッシュも含む大変幅の広いものですね。
M:ええ。何故なら全てのバラッドはスコティッシュ(起源)だからなのです。"ALISON GROSS"とか"THOMAS
THE RHYMER" みたいなビッグ・バラッド(高名、長大なバラッドのこと)はね。歌詞の上でね。私達はよくこれらを歌っていたのだけれど、スコットランド語だったから多くの人々は何を歌っているのか分からなかった(笑)。ボブ・ジョンソンはビッグ・バラッドで重要な仕事をしているわ。彼はよくビッグ・バラッドを見つけてきたの。それで、例えば"(LONG)
RANKIN" がベスト作の一つと思うけれど、彼は伝統のバラッドにメロディーつけたのです。
〔注:"LONG RANKIN" は75年のスティーライのアルバム『COMMONERS CROWN
』に収録されており、歌詞=トラッド、音楽=メンバー全員による作曲とクレジットされている〕
Q:そうだったんですか、ボブ・ジョンソンはロック界の人でフォークの人じゃないと誤解してました。
M:その通りボブはロックの人だけれど、彼によって"ALISON GROSS"とか"KING
HENRY" とか"THOMAS THE RHYMER" みたいなビッグ・バラッドをやるようになったのよ。同様にティム(・ハート)も歌を見つけてきたわね。