白石和良さんによる、ミホール/トリーナ/モレート・インタビュー

1.スカラ・ブレイとゲーリック・ソング

           

                                                                       

Q(白石):71年のアルバム『スカラ・ブレイ』は今聴いても実に新鮮な印象を受けます。その理由の一つは勿論素晴らしいゲーリック・ソングのコーラスだと思います。ミホールさん達が学生時代に休みの日になるとドニゴールに行って、ネリーさんという叔母さん(NEILLI NI DHOMHNAILL)のからゲーリックの歌を習ったという話は良く知っていますが....

ミホール(以下ミ):父親も叔母と同じように歌を知っていたよ。僕達は父と叔母から歌を教わったんだ。夏休みになると叔母のところへは行っていたけれど、でもドニゴールに行くのは1日がかりの長旅だったので、夏休みに行って後は...年に1、2度行ければといったところだったね。

Q:スカラ・ブレイの様にゲーリックの歌をハーモニー・コーラスで歌うという伝統はあったのでしょうか?

ミ:いいえ。

Q:私はノイリン・ニ・リアインが歌っている様な、ゲーリックの教会音楽の影響ではないかとも思ったのですが..

ミ:いえ、そうではありません。

モレート(以下モ):私達はビートルズとかその他の色々な音楽も聞いていて、様々な興味あるやり方で歌ってみたかったの。歌をドラマチックに変えてしまう様な事はしないでね。

トリーナ(以下ト):何時も私はごく自然にミホールやモレートと一緒にハーモニーで歌って楽しんでいたのよ。それが私の声で最も心地よく歌えるようなアレンジだったのです。
モ:トーリー島の人々がユニゾンで一緒に歌っている録音があったと思います。その様な伝統はあったのですが、ハーモニーで歌うという伝統はなかったと思います。だから私達はアイリッシュの伝統に新しいものを導入したと言えるかも知れません。

ト:これはある意味でリスキーな事でもあったの。当時の純粋主義者の耳にはね。でもやりたい事だったから私達はそんな意見には構っていられなかった。ダヒー(・スプロール)も一緒にハーモニーをしたわね。

Q:スカラ・ブレイのレコードになっているのはゲール語の歌だけですが、実際にはこのグループで英語の歌とかポップスなんかも歌っていたのですか?

ミ:ええ、あくまでも自分たちの遊びとしてだけれど。僕たちはビートルズのレコードを最初の曲から最後の曲まで通して歌えた時代もあったね。

ト:ラジオでも「マザー・ネイチャーズ・サン」とか「カントリー・ボーイ」みたいなビートルズの歌を歌った事があったわ。

ミ:それからペンタングルの曲とか、英国のフォーク・ソングとか、英語のアイリッシュ・フォークソングもね。でも我々に接触して来てスカラ・ブレイのアルバムを作ったゲール・リン・レーベルはアイルランド言語協会だったからアルバムの歌は全てアイルランド語(ゲール語)だったんだ。

モ:古い歌を新しい形で歌った最初のグループでしたので、認めてくれない人達もいたけれど、若い人々はもっと受け入れてくれたわ。

ト:私のソロ・アルバム『トリーナ』('75)が、ゲール・リンが英語の歌を入れる事を許可した最初のものだったと思います。私は英語の歌でもその源は伝統的と主張して言い争わなければならなかったけれど。それで結局向こうが折れて..。

                                                    

Q:そうだったんですか。ゲール・リンの最初の頃のアルバムはどれもライナー・ノートもゲール語だけでしたね。強固なポリシーを持ったレーベルだろうという事はよく分かっていましたが。

ミ:その通りだ。

Q:では、先程話の出たゲール・タハト(ゲール語地域)の叔母さんについてなのですが、その叔母さんの家ではゲール語で会話していたのですね?〔付記:実はこの質問はその家を訪れたミホール達も叔母さんとゲール語で会話していたのかという事を聞きたかったのだが、後の部分でも分かる通り、当然ながらそうなのだろう。〕

ミ:その通り。でも彼女は英語の歌も沢山知っていたよ。

モ:けれど、彼女は英語を喋るのは好きではなかったわ。

Q:そういえば、ミホールさんがミック・ハンリーと一緒に作った『CELTIC FOLKWEAVE』 (アイルランドPOLYDOR 2908 013,'74) にも叔母さんから習ったという英語の歌("The Banks of Claudy") が入っていますね。

ミ:その通り。

Q:皆さんは子供の頃から日常ゲーリックで会話をしていたのですね?

ト:私達は子供の頃自宅では常にアイルランド語(ゲーリック)で話していました。父親とも。そして両親は町で家だけがアイルランド語を話している家庭だという事に気づいたのでした。それで私達は時々、母親と英語で話したりもしました。少しずつつね..。でも父親とは常にアイルランド語で話していたのです。
〔付記:こちらはつい『ゲーリック(ゲール語)』と言ってしまうのだが、彼らは常に『アイルランド語』という言い方をしていたのが印象的であった。勿論同じ意味なのだが、『アイルランド語』という表現には自分たちの言語に対する誇りと愛情の様なものが感じられてならない。〕

Q:先程の叔母さんが住んでいたのはドニゴールのラナファストですが、このラナファストというのは町の名ではなく教区の名前と聞きました。この教区というのは具体的にどのようなものなのですか?

ミ:正確にはラナファストというのはタウンランド(townland=「区画地」)の名前なんだ。タウンランドというのは数軒の家が集まったもので、そこには中心の様なものは特にない。ラナファストはラッセスというエリア(教区)の中にあるんだ。ラナファストとかドンロウとか言った多くの小さなタウンランド存在している。つまり幾つかの村々がラッセスといったより大きなエリア(教区)を形成している訳だ。そう、ラナファストはラッセスという教区の中にある。

ト:私達が子供の頃にラナファストに行った時は、たった1軒のお店があっただけでそれが郵便局も兼ねていました。そこには教会は有りませんでした。一番近い教会まで数マイルもあったのです。・・・ところでクラナドの出身地のグウィードアって聞いた事はありますか?ラッセスとグウィードアという二つの教区があるのです。グウィードアは大きなエリアでその中には小さな村が沢山あります。小さな村々がより大きなエリアを作っていて、これをカソリック教会が管理している。これが教区と呼ばれるものなのですよ..

Q:なるほど。ところで、グウィードアとラナファストの距離は非常に近いのですか?

ト:歩いて6、7マイルぐらいですね。

ミ:入り江でグウィードアとラナファストは分断されているんだ。距離的には半マイルほどなんだが、海を迂回して6マイルくらい歩かなければならない。

ト:両者ははっきりと分かれていると言えますよ。だってそれぞれのフットボール・チームがあってライバル同士なんですから。

ミ:それからアイルランド語の言葉の響きも違うんだよ。

ト:ラッセスの人々は自分たちの方がグウィードアの人々よりも上だと思っているのです(笑)。

Q:ところで先程のネリー叔母さんの録音はあるのでしょうか?

ミ:音源はあるのだけれど.....

Q:それならば是非リリースして下さい!

モ:夫のカハルがリリースしたいと思っているの。でも彼は仕事で忙しいのでいつも「仕事を引退した時にね」と言っているのだけれど。〔注:このモレートの御主人については後の話を参照されたい。〕

Q:ネリー叔母さんはお父さんのお姉さんなのでしたっけ?それとも妹さんでしたか?

ト:父の姉でした。それと『Idir an Da Sholas-berween the two lights (心の絆 BMGビクターより発売) 』のCDのトレイの裏に写真が載っている祖母のモレート・ジョーンも多くの歌を知っていて歌が大好きな人でした。

Q:もちろんそのお婆さんもラナファストにずっと住んでいたのですね?

モ:そう、彼女はラナファストから決して離れませんでした。

Q:貴方達は実際にお婆さんが歌うのを聴く機会があったのですか?

モ/ト:ええ勿論。

ミ:そう彼女は偉大(グレート)だったね。

モ:そしてグレートな性格を持っていたわ。とても面白い女性でした。

Q:そのお婆さんのレパートリーは完全にアイルランド語の歌ばかりだったのでしょうか?

モ:ええ。彼女は英語が殆ど話せなかったのです。

Q:ネリー叔母さんの録音が将来リリースされる事を楽しみにしています。

モ:現在でもアイルランドに来れば、アーカイヴでネリーの声を聴く事が出来ますよ。

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